200「ツーハンドレッド」

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西洋圏では大ヒットした映画「300」
圧倒的な武力を誇るペルシア軍10万に対し、たった300で当たるスパルタの戦士たちの話だ。
絶望、未練、すぐ傍にまで迫る死。
どんなに理不尽な運命でもなお、闘わねばならなかった兵士達の歴史は、伝えるにはあまりにも過酷過ぎて聞くに堪えない酷い話なのだが、そんな歴史は結構少なくないのだ。
そして、その人間ドラマは人の生き方の本質に語りかける何かがある。
男として生まれた以上成せばならない、護らねばならない。
以下の話は映画とは関係ないが、似たような絶望的な状況を生き抜いた人たちの話なんだ。
何でこんなことを書いてるのかねおいらは。恐らく本日行ったsumile TOKYOの酒があまりにも美味しかったのが原因なのだ。


884年ヨーロッパ。
ヴァイキング遠征の真っ盛りの時期で、同時にキリスト教暗黒時代に指しかかろうとしているこの頃、あまり知られてないけど歴史的に大きな変革を齎す事件が起こる。
当時ノルウェーには強大な力を持つ勢力が台頭しており、その指導者ハーラル烈王は反目する勢力の存在を全く許さない程の徹底した政治を行った。
様々な勢力が入り混じっていたヴァイキングは一つに平定され、排他された者は漫画「ヴィンランド・サガ」のようにアイスランドに落ち延び、或いは他国へ追いやられる運命にあった。
“徒歩”のロルフと呼ばれる若きヴァイキングの貴族もその一人だった。
ロルフは故郷を逃れ、デーン人(デンマークヴァイキング)を味方につけ、セーヌ川を登り今のドイツまで勢力を伸ばす。
時にはジークフリードとも伝えられることもある最後のヴァイキング、後の初代ノルマンディー公と呼ばれる男だ。

一方、セーヌ川の辺にあるフランス、パリにはロベール家の長男ウードという若者が居た。
かつては地方の弱小貴族だった家計だが、父ロベール・ル・フォールの偉業によりパリ周辺の領地や修道院の管理を任されていた。
父の激しい気性を受け継ぎ、後にパリ伯の称号を得る男だ。

この二人の傑物が884年の冬(うろ覚え)、パリを舞台に激突した。
当時のパリの領主はカロリング家のカール三世。名高いカール大帝の子孫に当たる。
カール大帝の子孫らは、領地分乗の規則によりそれぞれ3つの領地を分配されていた。東フランク、中フランク、西フランクだ。
それぞれの子孫は自分が真の統治者だと欲の皮を突っ張らせ、領地の治安など省みもせず年から年中領地の奪い合いをしていた。
結果論から言えば、そのおかげでヴァイキングの略奪を許してしまっていたとも言えよう。
その時パリも、カール肥満王の遠征により軍の殆どは侵略戦争に使われていた。残ったのはたった200の騎士達。
そこにロルフ率いる三万(恐らく誇張で、三千だろうと言われている)のヴァイキングが襲撃。セーヌ川を船と鉄の武具で真っ黒に染め上げた。
ロルフはパリに上陸し、セーヌ川通行の許可を申し出る。
一方、カール肥満王に代わってパリを納めていたサンジェルマン・デ・プレ司教ゴスランはヴァイキングの略奪を恐れそれを却下する。
パリは戦場となった。

幸いパリには、シテ島をぐるっと囲む頑強な城壁があった。
いくらヴァイキングと言えど、これを落とすには一年の時間がかかると思えた。
結果、パリ周辺は地獄と化す。
ロルフ率いる軍は、帰るところを持たない、それこそ決死の軍なのだ。北欧の民が夏のひと時に行う冒険とはわけが違うのだ。
周辺の村、教会はことごとく彼らの餌食となったに違いない。
事実、パリに至る前に有るルーアン修道院は彼らの手に壊滅的被害を受けていた。
彼らは全知全能の神を恐れない。
北欧の神に習い、略奪を正当なものと認識し何の躊躇いも無く人を襲うことができるのだ。
しかしながら若い指導者ロルフは、これに躊躇いを感じていたのではないかと私は考えている。
後にノルマンディー公国を建国した彼は、モラル意識の向上に力を注いでいた。どのくらいというと、井戸に金の鎖をぶらさげ、一日経っても誰も盗んで自分の物にしようとしない程に徹底されたものだった。
当時からすると、非常に高いモラルの水準だったと言えよう。
ロルフはならず者のカリスマ的存在でありながら、非常に先見を持った人物だったのだ。

話を戻そう。
パリ城壁内も、略奪とは違う理由で地獄を味わっていた。
戦いで傷つき果てた兵、衰弱した民。死者は増える一方だった。
しかしキリスト教は遺体を焼くことを良しとしなかった。
司教ゴスランも矢張りそれを許さず、結果疫病がパリを蔓延することとなる。
悪魔の病、黒死病だ。
死の病、ヴァイキングの二重の絶望的な状況にパリは追い込まれる。
ゴスランは、その重圧からなのか死の病からなのかわからないが、戦時の途中で死去することになる。
ぼろぼろになったパリの後衛を任されたのはウードだった。

後のパリ伯になってからの記事や父ロベール一世の人柄から推測するに、ウードの指揮はゴスランに比べて的確だったものと考えられる。ロベール家の功績は、各地で暴れる海賊や叛徒の鎮圧が主なものだった。ヴァイキングの特色を理解し、事に当たったに違いない。
所詮蛮族、キリストの神の威光に適うはずなど無いとたかを括っていたゴスランとは違うのだ。

しかし翌年、ウードは無謀とも言える策を実行する。
三万の包囲を突っ切り、単騎で本隊のあるカール肥満王の下へ救援を要請する計画だ。あまりにも自殺行為甚だしく、胡散臭い話だ。真実は微妙に違うのかもしれない。
しかし計画は成功した。
事を理解した肥満王はパリに帰還。ロルフ軍の鎮圧に当たる。
ヴァイキングは恐怖の対象であったが、実は武力としてはそれほどの力を持っていない。軍としてのまとまりに欠けるロルフの軍は、正規の騎士に対してはその伝説的攻撃力を発揮することはできなかった。
彼らの武器は類稀な乗船術による電撃作戦にあったのだ。

だがヴァイキングにはもう一つの、我々日本人、武士が共感できる究極の武器があった。
死を恐れないことだ。
ヴァイキングが崇拝する北欧神は戦争を愛し、武功を評価する。立派に戦った戦士は死後ヴァルハラへ招待され、神の世界へ参加する権利を得るのだ。ヴァルハラに募った戦士(ベルセルク)は、世界の終わりの戦争ラグナロクに向け永遠に闘い続ける。それこそがヴァイキングの男の生き様だと信じていた。
死を恐れない決死の軍は、時に信じがたい結果を残すこともある。
パリの勝利は明白であったが、それを引き換えに大きな犠牲を支払うこともまた確実であった。

結局、カール肥満王とロルフの間である契約が交わされた。
パリの安全を保障する代償に、銀を支払うというものだ。
パリは戦争に負けたのだ。
結果を見ると、初めからヴァイキングの通行を許してしまえば、犠牲を払うことはなかったのかもしれない。
二百人の優秀な騎士が犠牲になることはなかったかもしれない。
パリ側もヴァイキング側も無駄な犠牲を払っただけなのだ。

しかし、パリの民には若き指導者の勇敢な行いは寄って足りるものであった。
カール肥満王は、その管理能力を問われ失脚する。
代わりにウードがパリ伯に即位した。彼が統治する間は対ヴァイキング政策を徹底したと言われる。乱世の世では良き指導者だったのだ。私はそう解釈する。
しかしウードは898年に死去。次の統治はカルロング家に返還されてしまう。
語り継がれない歴史。あまりに切ない歴史。

パリ越えを果たしたロルフはキリスト教に改宗し、ノルマンディー公国を設立する。所謂ノルマンディーコンクエストだ。
同時期にロベールと名を変える(解かりにくい!)。私は、このパリの死闘を繰り広げた相手への敬意を表してこの名を選んだのだと思いたい。
その後、先述した通りのモラルの向上、高潔さを根ざした思想は彼の精神は息子に受け継がれる。ギョーム長剣王など武功にも精神的にも優れた傑物が生まれた。
フランク側ではウードの弟の子孫によるカペー朝が台頭するのはまた後のお話。


以上、激変の切っ掛けを創りながらもあまり語られない男たちの話でした。
20を超えてから、私はこういった男の生き様に惹かれるようになった。ケネディ暗殺に密接的に関わった大悪党サム・ジアンカーナしかり、今日の乱世を生み出した最高の技術者カラシニコフしかり。
人はこんなにも生きれる。ここまで生きれる。

尚、上記は私の未熟な知識と勝手な妄想がふんだんに組み込まれており、正史ではないことをご理解いただきたい。